麻疹と地方衛生研究所

 

2016年夏、関西空港で働く人を発端として麻疹の流行があり、社会的な関心を集めました。

 

2016921日付けの『朝日新聞』記事によれば、患者は大阪府で多いこと、年齢は20代が多く、40歳未満が9割近くを占めています。日本は、2015年に麻疹の「排除状態」*1にあると、WHO西太平洋地域事務局に認定されています。全国の地方衛生研究所が最近の患者のウイルス遺伝子型を調べたところ、大半が中国・東南アジアで流行しているタイプだったということで、国立感染症研究所は、今回の流行は海外から持ち込まれたウイルスが流行したとみています。

『朝日新聞』2016921日第3

 大阪市の麻疹情報

 大阪府の麻疹情報

 1 「排除状態」については下記参照

 

  825日には、国立感染症研究所感染症疫学センターが「麻しんに関する緊急情報」を出し、流行国へ行く渡航者や医療機関関係者に対する呼びかけも行われました。

 

麻疹の概要についてはこちら

 国立感染症研究所の麻疹に関するサイト

 ・病原微生物検出情報(IASRInfectious Agents Surveillance Report)の麻疹特集号

 

◆今回の麻疹の流行は、社会的関心の薄れた感染症であっても、公衆衛生分野では継続して取り組むべき課題であることを示しています。さらにこの記事にもあるように、地方衛生研究所が、麻疹ウイルスの遺伝子分析を行うなど、検査に関わって重要な役割を担っていることが分かります。流行を抑えるには予防接種を徹底して患者発生を防ぐことがポイントになるので、今回の流行では社会的関心は予防接種に集まったのですが、その流行を分析し対応を考えるには、ウイルスの検査も重要です。ウイルス検査を行うことで、国内ではなく外国由来のウイルスだと分かったのです。このウイルス遺伝子分析結果や他のデータと併せて状況を分析することで、流行の先行きを予想し、対応のポイントを絞ることも可能になります。

 

◆「麻疹排除」の経緯

 

WHO西太平洋地域委員会の動き

 日本が属するWHO西太平洋地域委員会では、1974年以来、拡大予防接種事業を行ってきました。ところが麻疹の報告数は減少したものの、定期接種が行われていても接種率が低いために、数年毎に大流行があり、またその際、年長児や若年成人が多く罹患することが問題になっていました。2003年、同委員会は事業の強化を決定、麻疹排除のための「西太平洋地域麻疹排除行動計画」を承認し、繰り返す麻疹の流行を抑制し、麻疹の罹患と死亡をさらに減少させることにしました。2005年には、2012年までに麻疹排除を達成するという目標が設定されました。

 

なお、麻疹排除の定義は、「適切なサーベイランス制度の下、土着株による感染が1年 以上確認されないこと」とされています。また麻しん排除を達成したことが認定される基準は、「適切なサーベイランス制度の下、土着株による感染が3年間確認されず、また遺伝子型解析により、そのことが示唆されること」とされています。

 

ウイルスの遺伝子を分析することで、ある流行から分離されたウイルス間の疫学的なつながりや、地球規模でみてどの地域で流行しているものかを知ることができます。つまり、麻疹排除の取組みの中でウイルスの遺伝子分析は、日本で流行している麻疹ウイルスが、従来から日本で流行している株なのか、外国で流行している株なのかを区別して、麻疹が日本国内から排除できているかどうかを知る重要な鍵を握っているのです。

  

参照:「WHO西太平洋地域における麻疹排除」『病原微生物検出情報』第37巻第4号,62-64頁,2016年.

   「麻しんに関する特定感染症予防指針」2007年決定、2012年一部改正

 

一方このような国際的な動きと並行して、日本国内でも麻疹流行を契機にその対策が強化されていきます。

 ●日本における麻疹対策の強化

 麻疹の予防接種は、1978年から1歳~3歳を対象に定期接種が開始されていますが、流行を抑えることができるほどの接種率ではありませんでした。2001年に、乳幼児を中心とした麻疹の流行があり、これ以降、地域単位で麻疹予防接種の接種率向上に対する取り組みが始まります。厚生労働省は、小児科系学協会の要望を受けて、接種年齢が2歳までだったのを1歳半までと早期に終わるよう変更しました。さらに日本医師会などが、全国的な接種率向上に取り組むようになります。その結果、2005年には全患者数は1万人を下回ると推測されるほどになり、地域的集団発生もほとんどなくなるまでになりました。2006年には、それまでの予防接種の接種対象年齢を第1期とし、就学前にも第2期として接種するように変更されました。ところが2007年に20歳前後の若者が患者の多くを占める流行がおきました。この流行を契機に、ワクチン接種率向上に加えて患者数の把握など対策の強化が図られていきます。

 

この項参照: 

岡部信彦「麻疹ウイルス : 最近の我が国における麻疹の疫学状況, 今後の対策」『ウイルス』第57巻第2号,171-180頁,2007年.論文はこちら岡部2007

 

2007年、流行を受けた厚生労働省は、2012年までに排除、その後も排除状態が続くようにする、という目標を掲げました。そのための具体策は、5年の時限的ながら10代に対する予防接種機会を与えることに加え、患者数の全数把握への変更、報告数が一定以下になった場合は、ほかの疾患と区別するため、検査室で診断したもののみ報告するというもので、患者数の把握を徹底するものでした。それまで麻疹の患者数は、感染症発生動向調査5類感染症として、報告数の変遷をトレンドとして把握していただけでした。

 その後2009年には、他の疾患と区別し、患者報告数の正確を期すために診断根拠として検査が求められ、検査体制が強化されました。さらに患者報告数が減少してより確実な診断が必要になり、ウイルスの遺伝子検査を実施することが徹底されるようになりました。それは保健所と連携した地方衛生研究所の役割として、地方自治体に求められたものでした。麻疹排除に向けた取り組みには、正確な診断がより重要であり、そのためには、遺伝子検査などの精度の高い検査が必要で、医療機関は、保健所を通じて地方衛生研究所に検体を送るよう求められるようになっていきます。

 参照:「麻しんに関する特定感染症予防指針」

    「麻しんの検査診断体制の整備について(事務連絡)」2009115

    「麻しんの検査診断について」20101111

    多屋馨子「わが国の麻疹排除計画とその実践~2012年の排除を目指して~」『ウイルス』第60巻第1号,59-68頁,2010年.論文はこちら多屋2010

 

 国際社会の麻疹排除の動きもあり、また国内の若い成人における流行を受け、2007年に、日本は2012年までに麻疹を排除するという目標を掲げました。その具体策は、ワクチン接種率の向上に加え、患者報告数の全数把握や、患者の診断を臨床診断から検査診断へ、更にその検査診断も抗体検査からウイルスの遺伝子検査へと、患者報告数が減少するに従い患者報告における精度を上げていくというものでした。

 

2012年、「麻しんに関する特定感染症予防指針」が改正され、2015年までに麻疹排除を達成し、WHO西太平洋地域委員会の認定を受けるという目標が設定されました。土着ウイルス型D520105月以降、検出されていないものの、患者数が多いことや、排除を示すために必要な検査診断が、量的・質的に不十分だったので、2012年に排除の目標は達成できなかったのです。

 

日本の麻疹患者報告数は、全数把握となった2008年は11,013人、2009年は732人、2010年以降は500人以下となり、2013年は229人と、報告数は減少していました。しかし、麻疹排除の指標である人口100万対1未満(日本の人口に当てはめれば120人未満)には達していませんでした。麻疹患者と届出があるものの中には、麻疹以外のウイルス性疾患が混在していることも分かりました。そこで、医師の麻疹届出において原則として診断後、24時間以内に臨床診断として届けて、そのとき抗体検査を実施することや、ウイルス遺伝子検査などのための検体提出を求めることとしました。ウイルス検査は保健所に相談すれば地方衛生研究所が実施し、臨床と検査の両方で麻疹と判断されたものを「検査診断麻疹例」とし、麻疹ではないと判断されたものは届出を取り下げるなど、患者報告数を厳密にするための改善が行われました。このほかに臨床診断については、専門家の助言者を活用して正確を期す仕組みも設けられました。このようにワクチン接種率95%以上の目標の達成・維持という感受性者対策以外に、患者数の把握と麻疹ウイルス検査実施の徹底という、排除を示すためのデータの精度を上げるように指針が改正され、麻疹排除まであと一歩のところまでになりました。

 

参照:

岡部信彦「麻疹に関する特定感染症予防指針の改正」『小児科』第54巻第3号, 2013年, 301-308頁.

年間患者報告数(2008年~2014年)については、「発生動向調査年別報告数一覧(全数把握) 

 

WHO西太平洋委員会に設けられた「地域麻疹排除認定委員会:RVC」は、各国からの麻疹に関する報告を受け、麻疹排除の認定を行います。日本が2014年に提出した報告では、疫学的・ウイルス学的データが不十分とされ、認定には至りませんでした。2015年に提出した報告では、指摘のあった事項を改善し、排除と認定されました。

 

2015年の報告では、以下の点が改善されていました。

麻疹確定例には感染源の分析が求められますが、医療機関で使用される抗体測定用キットでは偽陽性が多かったことで、感染源不明が多くありました。しかし検査キットの改良で偽陽性が減り、その結果感染源不明が減って、疫学調査が不十分だという問題を克服しました。また自治体では、麻疹ウイルス遺伝子の検出、ウイルス塩基配列の解析および疫学調査の取り組みを強化し、報告を徹底しました。また、ウイルス遺伝子解析によって、輸入された各ウイルスが日本国内で1年以上継続した地域循環を起こしていないことを示し、海外から国内に入った麻疹ウイルスは、大きな流行を起こすことなく、散発・小規模で終息していたことを証明しました。

参照:

岡部信彦「感染症 WHO麻疹排除(measles elimination)認定 : 20153月」『小児科臨床』第68巻第7, 2015, 1439-1443頁. 

 

◆大阪府公衆衛生研究所の活動

 これまでみたように、麻疹排除に至るまでには、多くの人々のそれぞれの立場における貢献があり、その連携があって目標が達成できたわけですが、排除認定の基準に関わるウイルス検査を担ったのは、国立感染症研究所(感染研)と各地の地方衛生研究所です。ここでは特に地方衛生研究所のなかでも、大阪府立公衆衛生研究所(公衛研)が担った役割をご紹介します。公衛研では、1962年のウイルス課設置以来、麻疹対策に参加しており、ここに紹介する資料では特に筆者が関わるようになった2008年以降が述べられています。

 

2008年、全国の地方衛生研究所が相互交流・情報交換の場として設けている衛生微生物協議会で、麻疹・風疹レファレンスセンターの設置が決まり、近畿ブロックからは公衛研が参加しました。2007年の「麻しんに関する特定感染症予防指針」告示後、公衛研では検査方法の検討など、対応するための体制づくりに着手しました。それには、国立感染症研究所と協力して、麻疹ウイルス遺伝子の検出方法の確立に向けた検討やそのマニュアル化、検査試薬の配布、実地研修の実施などがありました。また近畿ブロックのセンターとして、近畿地区の地方衛生研究所で麻疹遺伝子検査ができるように働きかけを行うなど、近畿地区の中心的役割を果たしています。

 

一連の活動のなかのエピソードも紹介されています。

 当時麻疹の検査診断としてWHOが推奨していた抗体検査法(国内メーカー製)では偽陽性が多いことが分かり、この知見は、後にメーカーの検査キットの改良につながりました。それは公衛研が遺伝子診断の確かさを調べるために、抗体検査法とウイルスの遺伝子検査を比較検討するなかで明らかになったことでした。前述したように、このキットの改良は偽陽性を減らし、感染源不明が減ったことで、排除認定につながっています。

 

またウイルスの遺伝子検査のための検体は、咽頭拭い液・血液・尿の3種を用いますが、この3種が必要だということについて、臨床医や保健所職員に丁寧に説明する必要があったそうです。今では3種の検体を扱うことは当たり前になっているそうですが、それが現場に浸透するまでには、検査側から根気よく働きかけが行われた結果だったということがうかがえます。

 

このように麻疹排除のための活動では、ウイルス検査部門が重要な役割を担っていますが、そのなかで公衛研は、地方衛生研究所のなかで中心的立場にあり、国の感染研と共に長期間にわたる地道な努力を積み重ねて、麻疹排除という政策目標の達成に貢献しました。

 参照:

加瀬哲男・倉田貴子「大阪府立公衆衛生研究所から麻疹対策に参加して」『病原微生物検出情報』第37巻第4号,2016年,68-69頁.論文はこちら加瀬倉田2016

 

 ●かつては「たかが、はしか」と軽視されていた認識を改めるところから取り組む必要があったことなど、2010年までの全体的状況については以下の文献を参照: 

 多屋馨子「わが国の麻疹排除計画とその実践~2012年の排除を目指して~」『ウイルス』第60巻第1号,59-68頁,2010年.論文はこちら多屋2010

 

ここではウイルス検査を中心に見ていますが、各部門の連携については以下の文献を参照:

多屋馨子「麻しん風しん混合ワクチン: 麻疹排除認定後の課題」『小児科診療』第79巻第4号,2016年,479-485頁.  

 

 ●これまで2016年夏の麻疹流行を入口に、日本における麻疹排除の経緯をみてきました。排除には麻疹の感受性者を減らした、予防接種率の向上が成功の大きな要因です。さらにその認定をクリアするには、正確な患者報告数の把握と、その確かさを検査が裏打ちする体制が必要でした。加えてウイルスの遺伝子型を調べることで、国内で流行しているウイルスは外国由来であることを確認し、さらにそれが国内に定着していないことも証明して、2015年には日本も排除状態にあることがWHO西太平洋地域委員会で認められたのでした。この麻疹排除の取り組みのなかで、地方衛生研究所は重要な役割を担っています。

 

さらに麻疹排除は認定されて完了ではなく、今後も排除状態を維持する長い道のりが続いていきます。高い予防接種率を維持し続けること、患者発生があれば速やかで徹底した対応をとること、たとえ海外から持ち込まれても、それが国内に定着していないことを、ウイルス検査を通じて証明すること、などが重要です。病気は国内から消えて社会から忘れられたとしても、各分野で対応の質の高さは求められ続けるのであり、メディアで話題になった時だけ対応すればよいのではないのです。

 

2016.12.5←2016.11.3