国際保健規則――健康危機管理に関する国際的動向

ここでは、健康危機管理について、国際的な視点から考えます。公衆衛生上問題となる健康危機事例は、国内で発生するばかりではありません。最近では特にグローバル化時代を反映して、世界のどこからでも直接的な影響を受ける可能性がでてきました。日本では、2008年の中国産冷凍餃子事件や、2009年の新型インフルエンザなどが記憶に新しいところです。国際的に問題となる健康危機への対応に関しては、1948年に成立したWHOが重要な役割を担っています。WHOが求める健康危機対応とはどのようなものでしょうか。国際的な取り決めである2005年に改正された国際保健規則を見ていきます。

◆国際的ルール

 

かつては、国を越えて広がる公衆衛生上の問題といえば伝染病、特に世界的流行を起こしていたコレラでした。これに対して国際間の取り決めを定める歴史は、19世紀半ばまで遡ることができ、1851年からフランスの主導で始まった国際間の話し合いで、1892年に初めて合意形成に至り、国際衛生協定が結ばれました。

 

第二次世界大戦後、WHOにおいて「国際衛生規則」(1951年)が制定され、ペスト、コレラ、黄熱、天然痘、発疹チフスおよび回帰熱の6疾患が検疫の対象とされました。その後1969年に同規則は「国際保健規則」と改名されます。この規則は、1973年および1981年に改正され、検疫の対象は6疾患からコレラ、ペストおよび黄熱の3疾患へと縮小されていきました。しかし、近年の交通のグローバル化などヒトやモノの往来が盛んになるにつれ、加えて新興・再興感染症の登場などがあり、3疾患の感染症を対象にしただけの同規則では、国際的に懸念される健康危機問題に対応できなくなっていました。そこで1995年のWHO総会で、同規則を改正することが採択されて、改正作業が始まりました。しかし作業は難航し、当初2002年末までに事務局案を完成させ、2004年の総会に諮るという予定が遅れていました。ところが2003年に発生したSARSを機に、改正作業は加速度的に進行し、20055月の第58回世界保健総会で改正案が採択されました。

なお、国際保健規則とは、世界保健機関の加盟国によって世界保健総会で合意された規約であり、強制力はなく加盟国以外に影響及ぼすことはありません。しかし、世界各国は感染症の国内持ち込み予防方策として、これを標準に検疫法など国内法を整備してきました。「事実上は唯一の地球規模での感染症対策に関わる規範として機能してきた」(谷口2012)ものです。欧米加盟国では条約級扱いであり、日本も調印にあたっては外務省条約局が同席しています。


この項、谷口(2012)参照:

 

谷口清州「国際保健規則(IHR2005)の現状と課題(特集 国際感染症対策の現状と課題)」『公衆衛生』第76巻第8号,2012年,596-600頁.

◆国際保健規則

 

こうして「国際保健規則」(以下IHR2005)は約40年ぶりに大きな改正をみました。規則制定の目的は、国際交通・通商に与える影響を最小限に抑えつつ、疾病の国際的伝播を防止・コントロールする、というものです。このIHR2005における大きな変更点は、国を越えて広がる感染症に対応する従来の国境における検疫から、発生地での対策に戦略が転換されたことです。ヒトやモノの国際的な往来のスピードは速く、また頻度も高いことから、もはや国境で原因の侵入を防ぐ効果は限定的であると認識されたことや、経済活動への介入をできるだけ抑えようという考え方があったためと思われます。国内における異常の発生を発見するには、日常的な監視活動がより重要になります。国境から国内に視点が移り、常時監視体制、つまりサーベイランスの重要性が増したということです。さらにこのサーベイランス重視のほかに改正で注目すべきは、感染症だけでなく、化学物質や核・放射性物質など、公衆衛生上問題になる原因すべてが対象とされるようになった点です。これらの変更を日本の体制に当てはめれば、もちろん検疫所における活動も重要ではありますが、保健所や地方衛生研究所における日頃の地道な業務がより重要性を増した、といえるでしょう。

IHR2005では具体的な変更点について、次のことが示されています。

 

①報告対象の概念の拡大

②国を代表する確実な連絡体制の設置

③各国が準備すべき核となる能力の提示

④噂など非公式情報の積極的な活用

WHOの専門家による科学的根拠に基づく勧告

WHO以外の他の国際機関との連携・調整

 

それぞれの詳細に関心のある方は、谷口(2012)をご覧ください。

谷口論文にある文献のうち、WHO関係一覧はこちら


IHR2005については、谷口(2012)のほかに以下の論文でも取り上げられています。

 

岡部(2010)では、感染症対策からみて改正国際保健規則が解説されています。感染症に対する健康危機管理とは、日常的疾患の動向を知ることで初めて例外的疾患、危機的疾患の存在が明らかになり、対応が可能になるものであり、「日常からの淡々とした感染症サーベイランスの実施が最も重要」だと主張されています。

 

松延(2007)では、国際政治の視点から、IHR2005の改正やその意義・課題が説かれています。

 

鈴木(2011)では、IHR2005が国際法として詳細に検討されており、同規則改正経緯についても詳しく述べられています。さらにIHR2005に関する文献や戦前の衛生条約関係の歴史に関する文献の一覧もあります。

 

・岡部信彦「最近の感染症の動向」『診断と治療』第98巻第8号,2010年,1228-1234頁.

松延洋平「国際貿易の自由化と感染症の危機管理--新しい国際保健規則IHRの意義を求めて(特集 感染症の危機管理--関運法規改正後の新たな展開)」『公衆衛生』第71巻第10号,2007年,824-830頁.

・鈴木淳一「世界保健機関(WHO)・国際保健規則(IHR2005)の発効と課題--国際法の視点から」『独協法学』第84号,2011年,189-292頁.

 

参考資料:

・厚生労働省のIHR2005関連サイトではIHR2005の本編・付録の仮訳などが一括して置かれています。

 

厚生労働省のIHR2005関連サイト

厚生労働省のIHR2005解説


2013.9.5