現在は日本社会に定着、または制圧されるなどして脅威として感じられなくなりましたが、社会に出現した当時は、非常な社会的危機と受け止められ、大騒動になった事例を集めました 。
1970年代 コレラ
1980年代 AIDS
1990年代 O157
2000年代 鳥インフルエンザ、新型インフルエンザ
◆コレラ◆
現在、日本ではコレラは脅威とは思われていませんが、かつては外国からやってくる恐怖の伝染病と考えられていました。外国では流行していましたが、戦後は敗戦直後の混乱期を除いて日本国内で流行した経験はありませんでした。そうした中で、1977年、国内に感染源がある国内流行が起きました。このとき流行地であった和歌山県の有田市内を通過したというだけで車の消毒を考える人もおり、また和歌山の梅干しが売れないなど、社会にパニックが広がりました。有田では感染がどこまで拡大しているのか、対策のためにも検査をする必要がありましたが、ほかの地域でも感染を心配する人々からコレラ菌検査が求められました。
コレラの戦後初の国内流行における和歌山県・国の記録:
コレラ菌の検査には、和歌山県の衛生研究所が当たりましたが、対応できる量をはるかに超えていたため検疫所、大阪府・神戸市の衛生研究所、大学、病院、臨床検査技師会の協力体制を敷いたこと、1日2,000~3,000件以上、場合によっては10,000件の検体をいかに処理したか、生々しく記録されています。
・和歌山県編『有田市を中心として発生したコレラ誌』1978年.
・厚生省公衆衛生局保健情報課編『コレラ防疫の記録 : 有田市を中心とした集団発生』1978年.
◆AIDS◆
1981年、アメリカで患者認知 → 1982年 AIDSと命名
1983年、ウイルス分離
1987年、日本人として初めての女性患者が神戸で確認され、エイズ・パニックがおきました。この騒ぎを受けて、当時の国立予防衛生研究所(現、国立感染症研究所)で検査法が決定され、保健所で検体を受け付け、地方衛生研究所が検査を行い、国立予防衛生研究所は地方衛生研究所をバックアップするという体制が、急きょ全国的に整備されました。
◆腸管出血性大腸菌O157◆
1982年、アメリカでハンバーガーを原因とする集団下痢症から分離
1985年、溶血性尿毒症症候群(HUS)との関連性認める
1990年、埼玉県浦和市の幼稚園関係者に集団発生、患者251人、死者2人=日本における腸管出血性大腸菌による最初の集団発生事例
1993年、アメリカで複数州にまたがるハンバーガーによる集団発生
→ 米疾病予防管理センター(CDC)は新興感染症のひとつと位置づけ
1996年5月、岡山県で集団発生、これ以降全国的な大流行
とくに7月には、大阪府堺市において、患者5,591名の「未曽有の大型事例」が発生した。この年、このほかに全国で1件100名以上の大型食中毒が8件発生。
8月、厚生省はO157をはじめとする腸管出血性大腸菌感染症を指定伝染病に指定
この項参照=山口惠三編『新興再興感染症』日本醫事新報社,1997年;金政泰弘, 三輪谷俊夫『食中毒の恐怖――実際に役立つ知識と予防』紀伊國屋書店,1998年.
腸管出血性大腸菌O157大流行時の堺市の記録:
・堺市の報告概要 行政対応中心、原因は市の衛生研究所で特定した
・厚生省病原性大腸菌O-157対策本部『堺市学童集団下痢症の原因究明について(調査結果まとめ)』1996年.
・堺市学童集団下痢症対策本部 編集,堺市環境保健局衛生部地域保健課 編集『堺市学童集団下痢症報告書 : 腸管出血性大腸菌O157による集団食中毒の概要』1997年.
また、全国的にも社会問題化したという記録があります。
『日録20世紀 : 週刊Year Book 平成8年』講談社,1999年
→ 猛威!「病原性大腸菌O157」の恐怖
◆鳥インフルエンザ◆
2004年、日本でも山口や大分で鳥インフルエンザの散発的発生がみられるようになり、特に京都府では大規模養鶏施設で発生して、大きな社会問題になりました。このとき、陣頭指揮にあたった知事が自ら書いた記録があります。
発端は、2004年2月26日の匿名電話だった。20万羽を超える大規模養鶏場での鳥インフルエンザ発生で、鶏の殺処分とその埋却、大量の鶏糞の処理、鶏舎の消毒、周辺住民の埋却への協力や農業関係の風評被害への対応などに、府庁の職員を総動員したうえ、市町村・消防・京都府警察・他府県・民間業者・ボランティアなど多くの人があたり、さらに自衛隊にも出動要請をして、総数17,000人近い人手を投入して収束させた。国のマニュアルは小規模農家での発生に対応したものであり、この事例は想定をはるかに超えた大規模なものだった。初発の養鶏場への対応が終わらないうちに、別の養鶏場にも飛び火し、さらに世界的にも珍しいカラスからウイルスが確認される事態もおきた。
今回の対応には、前年のSARSの教訓を活かした。これは2003年5月、SARS感染の台湾人医師が、大阪・京都・兵庫および四国の一部を観光していたことが分かり、感染の恐れがあると大騒ぎになって大混乱したのだった。今回はこの経験を活かして、現場主義、情報公開の徹底、国・市町村との連携、専門家の活用という基本方針をたて、対応に当たった。
●このときの鶏のウイルス検査は、京都府の家畜保健衛生所と国の動物衛生研究所が連携して行われていました。しかしカラスからウイルスが検出されたことで、死んだ野鳥を発見したという通報が急増して、その検査体制もつくられました。これは、簡易検査を農業系試験研究機関と民間検査施設で実施し、陽性であった場合に、中央家畜保健衛生所や京都府立医科大学のほかに、地方衛生研究所である保健環境研究所でもウイルス分離を行なうというものでした。6月末までに2,355件が検査され、最初の確認以降、府内で計7羽の感染が判明し、隣接する大阪府でも2羽の感染が確認されたそうです。
鳥インフルエンザ発生時の京都府の記録:
山田啓二, 京都府政研究会編著『危機来襲 : 鳥インフルエンザ・48日間の攻防』京都新聞出版センター,2005年.
◆新型インフルエンザ◆
2009年4月21日、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)が、ブタ由来のインフルエンザウイルスのヒト感染事例を予報的に公表、同所の週報(MMWR)4月24日号に掲載
4月28日、WHOは、新しいインフルエンザウイルスの流行について、ヒトからヒトに感染が起きている段階であるフェーズ4と決定
同日、日本はこれを受けて、感染症法に規定する新型インフルエンザの発生を宣言、国際便の発着する空港・港の検疫強化
4月30日、WHOは、ヒト-ヒト感染事例が多発している段階であるフェーズ5に引き上げ
5月1日、厚生労働省、新型インフルエンザに関して、調査強化を指示
5月11日、厚生労働省、北米から帰国の4名から新型ウイルス検出を発表
5月15日、神戸市で、渡航歴のない患者で新型インフルエンザ感染が否定できない事例が発生
5月16日、国立感染症研究所は、神戸市の事例を陽性と確定、新型インフルエンザ国内感染の最初の報告事例となる
新型インフルエンザの国内における発生は、アメリカでの新しい病原体確認の公表から、日本国内における同病原体の確認まで、わずか1か月足らずのことでした。日本では、この神戸市におけるウイルス確認を受けて、新型インフルエンザが国内でも流行しているとして、大きなパニックが起きました。このとき神戸市環境保健研究所の、最初の検出状況から、一連の騒動のなかで大量の検体にいかに対応したかが記録されています。
新型であることが否定できないと判断された5月15日夜、大量の検体が押し寄せてくるであろうことを予想して、特別の検査体制が敷かれました。それは微生物部門ばかりでなく化学部門を含めた全所員が対応するもので、24時間対応、2・3交代制が敷かれました。また重要機器の追加も行われました。さらに4日後の19日には本庁にも検査要員の応援を求め、技術者の派遣を受けました。こうして、マスコミ報道を受けて急増した患者の検査に対して、24時間対応の体制は5月29日まで続けられます。その後検体数の減少に伴い、検査体制は暫時縮小していき、6月15日に通常の状態に戻りました。つまり1か月のあいだ緊急体制が敷かれ、この間他の業務は停止されていていました。緊急体制が解かれた6月15日から通常の業務が再開されています。
海外旅行の帰国者では新型ウイルスが確認されてはいましたが、国内ではどこからも未だ検出されていない時期に、外国で流行している病原体が、海外渡航歴のない患者で確認されるという、想定外の事態であったにもかかわらず、なぜ適切な結果が出せ、それに対応できたのか、報告で考察されています。
まず、日頃の監視体制が的確に機能していたことが挙げられています。集団発生や事件が起きてから調べるのではなく、特定の病原体については、普段からその動向を調べる体制が全国的に整備されています。これは「感染症サーベイランス」と呼ばれる事業の一環として行なわれているものです。神戸市ではこの日常の地道な検体収集・検査体制が有効に機能していたからだと考察されています。また、予想外の結果がでた段階で、多くの所員がそれぞれの専門を駆使して分担して検査を進めたことで、結果に間違いがないことが速やかに確認できたとも考察されています。
このように病原体の監視体制が有効に機能していたことや、所員の技術の高さやその協調が考察されているのですが、このほかにも指摘しておきたいことがあります。報告では言及されていませんが、現場で共有されていた暗黙の了解とでもいうものが、この事例では鍵になったのでした。それは、マニュアルはあるが、必ずしもそれに縛られずに臨機応変に対応して、指示されたことをただ遂行するのではなく、起きていることを明らかにしたい、という態度です。
新型インフルエンザへの対応として、厚生労働省は地方自治体に対し、4月28日に発熱相談センターの設置、同29日に新型インフルエンザの定義とその届出、5月1日には積極的疫学調査の実施について、それぞれ指示していました。これを受けて、神戸市でも、38度以上の発熱や急性呼吸器症状を示し、渡航歴があるなどの患者について、ウイルスの検査が行なわれていました。しかしこの最初に確認された事例は、渡航歴がない、つまりこの検査の適用とはならない患者でした。さらに上記した感染症サーベイランスの検体を集める「定点」以外の医療機関の検体であったことも記されています。
医院の当初の要望は、インフルエンザ迅速診断キットでA型が陽性になったので、さらに詳しい検査をしてほしいというものでした。しかし検体の残量が少ないため、ウイルス分離は困難で、遺伝子検査もできるかわからないということで、検査担当者が主治医に直接連絡をとったところ、そのやりとりのなかで、渡航歴はないものの家族の心配に配慮して、通常のインフルエンザの検査に加えて、新型についても検査することになった、とのことでした。
神戸市では、感染症サーベイランスの定点以外の医療機関から、検体を受け入れることがよくあるのかどうかわかりませんが、定点以外の医師でも詳しく調べようと考えることが珍しくないことがうかがえます。つまり、報告に記されたように、検体収集・検査体制が有効に機能する土壌が育まれているのでしょう。
この事例は、渡航歴はなく新型の可能性は考えられてはいないが、患者家族の心配に配慮した医師の要望に沿うよう仕事が進められた結果、思わぬ駒が飛び出してきたのです。病原体の動向を調べる事業が機能する土壌の上に、新型ウイルスの発生という情報が行き渡っていたなかで、市民の不安を受け止めた医療者の要望に対し、丁寧に検体に向き合う検査側の態度があった、というさまざまな事柄が積み重ねられた結果、最初の国内感染例の発見に至りました。
国立感染症研究所による新型ウイルスを検査するための試薬の提供や、主治医の確認検査をするという判断、それに対応した保健所、つまりこれら他組織との連携も忘れてはなりませんが、ここでは検査者側の態度を強調しておきたいと思います。このような規範は、長い経験によって培われて、現場で暗黙の了解として共有されているものであり、おそらく報告を作成した人たちには当たり前すぎることなので、あえて記すこともないことだったに違いありません。
迅速・的確な科学的結果が出せたことで、学校園等の休校措置や神戸まつりの延期など、行政の対応も迅速に行われ、流行の拡大防止に大きな効果をもたらしたと、報告で考察されています。杓子定規なマニュアル通りに仕事を進める態度では、この初発事例の確認は不可能だったことでしょう。その場合、流行がどれほど拡大してから判明したかわかりません。これは神戸市だけではなく、日本中の問題でした。今回流行した新型ウイルスは病原性がそれ程強くなかったため、結果として大騒ぎがばかばかしくも思われたのでしたが、流行の初期段階では詳細はよく分からないのであり、迅速な対応が重要であることは論を待ちません。後知恵では何とでも論評できますが、相手が良く分からず事態が拡大しているときには、現状を的確に把握し、速やかに対応することこそが重要なのです。
神戸市における新型インフルエンザウイルスの国内流行の初めての確認には、検査に関わる現場の態度を抜きにしてはなかったといえます。しかし地方衛生研究所の存立基盤が切り崩されつつある今、ここでみたような長年現場で培われてきた技術者の倫理が、今後も継承されていくかどうかは非常に不透明だといえます。さらには、たとえこのような倫理観が受け継がれたとしても、効率性や合理性が至上命令となれば、それを発揮することはできなくなるでしょう。
●新型インフルエンザが日本に登場したとき、地方衛生研究所も含めて、対策に関わった関係者にインタビューして作成された記録があります。
瀬名秀明著・鈴木康夫監修『インフルエンザ21世紀』文芸春秋,2009年の第1章
2012.10.10