地方衛生研究所に「選択と集中」は馴染まない

大阪府市統合本部の統合案はビジネス業界用語に満ち満ちており、門外漢にはなかなか理解しにくいところもあるのだが、理解できた範囲で以下意見を述べたい。なお統合案は、2機関の統合よりもそのさきの法人化に重点を置いた案であり、以下法人化案と呼ぶ。

 

法人化案は地方衛生研究所には異質の、ビジネスマインドに溢れた組織作りを狙っており、多くの問題を含んでいる。ここでは特に法人化後の戦略の柱とされる「選択と集中」の問題点を指摘したい。

 

地方衛生研究所は、食中毒や感染症の発生時などに行政が対応する際、科学的データを提供するなどの健康危機管理の際に重要な役割を担い、また、食品中の残留農薬等のモニタリング調査、感染症やその病原体の動態調査をはじめ各種長期的調査を実施している。大阪のような大規模機関は、開発研究の部分も含むが、主軸は企業支援などではなく、あくまで人々の健康保護にある。以下、地方衛生研究所が担当して長年実施されてきた環境放射能調査を例に、単純に「選択と集中」することは愚の骨頂であることを説明したい。

 

2011年、福島原発の事故のあと、環境中に放射性物質が拡散した。この時我々の身の回りにどれほどの放射性物質が散ったのか、事故以前と比べて放射性物質の分布はどう変わったのか、全国の誰もが不安になった。そうしたなか文部科学省は、事故後の316日、全国の大気中の放射線量の値と、その値は一部では平常値を超すが、どこも健康被害がでるレベルの値ではないというコメントを発表した。

日本では環境中の放射能の測定に関して、原子力発電所等の緊急事態に対応するSPEEDI1985年運用開始)とは別に、環境放射能調査が実施されてきている。この環境放射能調査は、米ソが実施していた原水爆実験に対し、地方衛生研究所を含む気象・農業・水産などの中央・地方試験機関が参加して1957年に始まり、1986年の旧ソ連のチェルノブイリ事故後拡充され、変遷を経ながらも継続されてきたものだ。「平常値」とは、この長期間のデータ収集から導き出されたものである。濃厚汚染地域の人々には残念ながら役立たなかったが、その他の地域の人々にとっては、316日のデータ公表は、不安解消に一定役割を果たし得たと考える。「誰かが調べている」という事実も、人々に安心感をもたらしただろう。

 

このような調査は、もし地方衛生研究所が「社会的ニーズ」や「競争力」で判断される「選択と集中」という企業戦略を模倣した態度であれば、チェルノブイリ事故への社会的関心が冷めた時点ですべて終了していたに違いない。その結果、測定機器は放置あるいは廃棄され、測定技術も継承されず、その分野に明るい人員や当該領域に関係する人的ネットワークもなく、環境中の放射線量の全国的把握ははるかに遅れ、また蓄積データがないことから、その評価も困難であっただろう。その結果、人々の不安や混乱は実際よりずっと長引いたと考えられる。

 

実際、同事業は縮小されてきており、ヒトが摂取した食品の放射線総量を測定する「日常食」という調査項目は2008年で終っていた。これに対しては、毎日の食事からの内部被曝に関する具体的データがあれば、人々がリスクを考えるのに役立つとして、復活を求める意見も出されている[1]

 

ともあれ、同調査は縮小されつつも一応は継続されてきたことで、今回それなりの役割を果たしたといえよう。役に立つのか立たないのか、立つとしてもいつなのか、なんとも頼りないが、健康危機管理への対応には、糊代のような余分な部分の存在が必要なのだ。地方衛生研究所は、そのカバーしうる分野や、使える予算は限定的であるが、これまでのところ、歴史のなかでそれなりの役割を果たせるよう体制を整えてきたのだと考えられる。

 

法人化案では、トップクラスにあると現状把握された研究レベルを活かせば、健康危機管理に即応できるとしている。しかし、上記でみたように機器・人材・蓄積されたデータ・人的ネットワークなど、対応には基礎体力部分が不可欠なのであり、研究水準の高さだけで担保できるものではない。「選択と集中」というビジネス戦略を地方衛生研究所に持ち込むことは、大阪の将来を危うくする以外、なにものでもない。


[1] 「社説 食品と放射能 検査充実と情報提供を」『朝日新聞』2012326日発行.

 


2012.9.11



上記環境放射能調査については、東電福島第一原発事故後、環境放射能問題に取り組んできた科学者によって書かれた本2のなかでも、触れられています。


福島事故以前の原子力事故に備えた、モニタリングや対応インフラの準備状況について書かれた、第7章の7.1節「放射線モニタリング設備」(山澤弘実)の部分です。

原発周辺では事業者や地方自治体がモニタリングを実施していた一方で、全国レベルでは、文部科学省の事業として「環境放射能水準調査」があった。「本来、この事業は過去の核実験起源放射能の追跡を目的」にしたものだったが、この事業によって、福島第一原発事故の影響による空間線量率の上昇が、中部地方から東北地方にわたる広い範囲で検出された。この事業は、「降下量等の放射能測定と合わせて事故の広域影響を把握する上で重要な働きをした。また、より遠隔地では事故影響がないこと、あるいは日常生活にまったく影響を与えない程度にきわめて軽微であるという安心情報を提供できたという点でも有効であった」と評価されています。


さらに7.2節「原子力防災に必要な情報」(山澤弘実)では次のように考察されています。

内部被ばくの問題を考えるには、環境試料中の放射性物質の濃度を測定する必要がある。そのための測定法は確立され、統一的指針類が整備されているが、即時性や処理できる検体数に制約がある。また専用機器や専門知識を持つ要員が必要となり、一朝一夕での体制拡充は困難だ。「この観点からは、文部科学省『環境放射能水準調査』が継続されてきたことにより、全国の都道府県(環境センター等)で環境試料中の放射能分析が可能であったことが、事故の広域影響把握に大きく寄与したものと認識されるべきであり、そのインフラのさらなる拡充・利用を図るとともに、緊急時に全国都道府県のこのようなポテンシャルが組織的に機能するような体制・制度の整備が必要である」。



2 中島映至 [ほか] 編『原発事故環境汚染――福島第一原発事故の地球科学的側面』東京大学出版会,2014年,168-170頁. 




                                                                                          2014.12.19